私と外国語

普通、中学から、英語が始まる。 私も、意気揚々として、英語を始めた。そして最初の中間テストは見事100点だった。もっとも内容は「This is a pen」のレベルであるから・・・。が、中学1年の夏に英語の先生が椎間板ヘルニアでリタイアし、代わりの先生になってから、進度は速くなり、成績の向上は無かった。NHKのラジオ講座も聞いていたが、朝早く眠い目をこすりながらで、オープンリールデッキの録音操作を熟知するに終わった。 言い訳としては「鬼畜米英」「敵国語」「何で英語を」と思っていた。 が、中学の頃は、相対評価であるから、わからないと言えども、平均以上に位地してはいた。

そして高校。基礎が出来ていないまま、先に進んでも、わかるわけが無く、テストの点数なんか、急降下で10とか30とか言うのばかりで、絶対評価の高校では、2から4(10段階)をさまよう。大学受験に至っては、点数としての戦果はまったく期待出きず、理数2教科の点数に若干のプラス程度の位地にしかならず、とても満足な受験体制ではなかった。
大学では、第二外国語が有るのだが、わかっていない英語の他に、ドイツ語まで受け入れられるはずも無く、第二外国語として、英語を選択した。しかし当然内容は分からず、先生の温情で、実績に関わらず、単位はいただいた。 もちろん、この時点で、中学初期のレベル以外の何者でもない。

社会人になって、実際、英語が分からない事で、不自由はしなかった。

船が好きで、あちこち資料を集めていると、当然外国の資料の素晴らしさが浮かび上がってくる。始めは写真や図、データを見るだけで満足していたが、そのうち内容を知りたくなってくる。 ただ、写真とデータ以外理解できないから、資料価値は下がるが、それ以上困る事はなかった。 そして、更なる情報を要求するには、英文の手紙を書かなければならない。 片言の文章を作成し、発信すると、いくつかは返事が届く。写真やエハガキなど貴重な物を頂けるが、具体的な要望や、的確なやり取りなど、とても出来ないから更なる進展は見込めなかった。

89年秋には、社員旅行でハワイへ行ったが、団体旅行ではそれほど困りもしない。 ただ、「Warship of the Imperial Japanese NAVY 1869-1945」を調達し、洋書のありがたみを痛感した。 そして、United States Naval Institute のメンバーに成り、洋書の収集に熱が入る事に成る。 しかし、本は集めても、英語能力の向上はないから、写真とデータ以外理解できず、資料価値は半減である。

果たして91年春、一身上の事情で、暇な時間が発生し、ふと思い付いたのが英語の勉強。 と言っても、授業料を払う財力はないから、NHKのラジオ講座を聞き始めた。20年前の敗因は、6:00の放送を眠い目を擦りながら聞いていたこと。現代はタイマー録音が出来る。やると決めたら、徹底的にやるのが私のモットーである。基礎英語・続基礎英語・上級基礎英語を毎日90分テープに往復録音して、一日に何度も聞いた、BGM代わりに。土日を含めて一日平均二時間程は聞いた。もっとも殆ど聞き流している状態ではあったが。毎日二時間だと、年間700時間を越える。高校の授業は夏休み等もあるので、年間200時間程度であるから、3.5倍である。このくらいやってくると、結構分かってくるもので、(これで分からなければただの馬鹿かも知れない)ついでに受けた英検3級にも合格。(マークシートには強い!)なんで英語がキライだったのか、とさえ思うようになった。と言っても、英語力として充分役にたつものが備わったわけでは決してないが、多少のものはあると思う。

わかってくると使いたくなるのが人情で、港に出向くと、外国船員を捕まえて、お話をしたり、資料を貰ったりが始まる。

92年春、奇しくも、会社の海外研修が入り、非常に有益だった。

この頃、東京には、ロシア客船が出入りし、ロシア人との接点も出来た。「ソ連」=「暗黒の帝国」のイメージが有り、その国民も「青い血」が流れてさえ居るような先入観が有ったが、会話が出来てくると、普通の人間で、目から鱗であった(これを、単なる偏見と言う)。 が、ここで、ロシア客船のお姉さんが、英語を知らないと言う事態に出くわした。案内してくれたお礼に「ありがとう」を言おうとしたら、言葉が分からない。全くわからない。冷戦のお陰で英語の教育が無い国だから「Thank you」すら全くわかってくれないから、どうしようもない。非常にさびしい思いをした。 で、ロシア語のラジオ講座にも手を出した。もちろん、取っ掛かりの程度だが、文字が分かり、挨拶が出来ると、非常に楽しい。 かつては、ИやЯなどアルファベットのひっくり返ったものとか、ДやЛなど訳の分からない文字と言っていたが、直読できるように成ると、非常に便利でもある。 何と言っても、舷側表記の艦名が直読できるのは快感。 因みに「CCCP」はアルファベットに直すと「SSSR」であり、ロシア語としても、決して「シーシーシーピー」とは読まない。 そして、ふと思い付いて、ロシア客船でウラジオストクへのクルーズ。 もちろん、ロシア語での会話なんて及びもしないが、挨拶が出来る事は雲泥の差であった。

94年冬には韓国の艦艇が来日したが、ここで、ハングル文字の対応表を貰い、ハングル文字の解析が可能となった。

その後、色々忙しくなって、勉強こそ出来なくなったが、放送や印刷物など、外国語の物への見方も変わり、外国艦船の訪問など、楽しい日々を送る事が出来ている。 辞書も「露和」「和露」「仏和」「独和」等を揃え、解説本も「スペイン」「ポルトガル」「オランダ」「フランス」「ロシア」等を集めている。

98.12には、再び韓国の艦艇が来日したが、この時のパンフレットをもとに、資料作成途上、ハングル文字の入力ツールとあいまって、だいぶ、直読が可能に成った。

昔の私を知る人なら、私が「外国語」を語るなど、世の中の異変位に思う事だろう。私が外国語の勉強等、ソ連崩壊より有り得ない事である。



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新規作成日:1998年212月6日/最終更新日:1999年1月2日