日本海海戦勝利の真因 東郷長官の真の決断(イギリス海軍からのアドバイス)

日本海海戦勝利の真因
東郷長官の真の決断
(イギリス海軍からのアドバイス)

初めに
 明治38(1905)年5月27日、東郷平八郎海軍大将の率いる日本海軍連合艦隊は、はるばる西欧のバルト海からインド洋経由で遠征してきたロシア第二、第三バルチック艦隊と、山陰の対馬沖で交戦して大勝した。歴史上「日本海海戦」と呼ばれるのがこの戦いである。拿捕、沈没を含めロシア艦隊が全滅したのに対して日本艦隊の損害は水雷艇三隻沈没のみという完全試合であった。
 この戦いは海戦における主役が大砲であり、砲撃であることを証明した海戦でもあった。
 海戦から100年後の今日になり、この勝利の裏には、海戦直前にイギリス海軍からの最新の砲戦技術が日本海軍に伝授されており、伝授の成果として海戦当日の日本海軍の命中率が向上していたことが明らかになった。
 このレポートはその経過の詳細な説明であるが、日本海海戦そのものと、海戦に至るまでの戦争の経過は省略し、砲戦術という専門知識を必要とする分野に付き詳述した。

最新砲戦術の伝授経過
 イギリス海軍から日本に派遣されたW. H. C. S. Thring海軍大尉(1873−1949)は、明治38年2月1日にイギリスを発ち4月14日に日本に到着した。彼が乗り組みを指定された戦艦「Vengeance」(1899進水、1万3500トン、18ノット、「三笠」の準姉妹艦)は数年前から東洋に派遣されており、当時は日本を基地にしていた。だから、T大尉の赴任は定期航路の便船に依ると思われる。
 当時、イギリス海軍は砲戦の新技術たる「一斉打ち方」の研究を開始しており、T大尉は明治37年2月からこの研究会に参加していた。T大尉が研究会のメンバ−に選抜されたのは、砲戦術研究の熱意と創意工夫の多さであった。
 T大尉の日本での足取りは明らかでないが推定はできる。
 T大尉の来日日はロシア艦隊先遣隊がベトナムのカムラン湾に入港した日であった。彼らはここカムラン湾で後続部隊を待ちながら最後の補給を実施していた。このカムラン湾は日本からの航海日数が約2週間の近距離であった。
 このような緊急事態のため、T大尉が日本側にイギリス海軍の研究成果を伝え、新兵器の「変距率盤」(the tool of rate of change of range)の説明をしたのが、翌4月15日。そして日本側が対策会議を開催したのがその翌日の4月16日。この日、東郷大将は今の日本式の射撃法(「独立打ち方」)を廃止し、イギリス式の射撃法(「一斉打ち方」)に変更すること決意した。大将の決意は4月17日に連合艦隊全員に布告(聯隊機密276号)された。まさに、日本海海戦の40日前であった。そして、有名な艦砲射撃の猛訓練が始まった。
 戦艦「大和」の砲術長体験者、故黛治夫海軍大佐は、射撃法の変更で連合艦隊の主砲命中率は30%向上、と説明している。
 新射撃法の成果を十分に発揮するには敵艦隊と平行に進みながら砲戦を交えなければならない。この必要が東郷ターンと呼ばれる敵前回頭を誘引し、丁字戦法の実施につながった。
 日本海海戦のとき、T大尉は日本海軍の小型軍艦に乗船して遠方から海戦を観戦した。
 T大尉は明治41年1月21日に転勤を命ぜられたが、この年の2月には新射撃法の改良に熱心なことと、乗艦の戦艦「Vengeance」が明治40年度射撃検定で好成績を収めたことなどから最高級の特技章を受領した。
 10年後、豪州海軍に派遣されたT大尉は大佐に進級しており、第一次大戦での日豪共同作戦の褒章として日本から勲3等旭日章を送られ、また、イギリス海軍では最年少で艦長に進級したことで有名だ。

研究会は、この件の全資料、日本の照準盤、英国の変巨率盤、来日したイギリス海軍士官の経歴書、そのほかを掲載した「戦前船舶号外」(予定20ページ)を10月15日ごろに発行し、会員と在来の贈呈先などに送付します。同時に、この問題を公開討論したいので希望者に手交します。
希望者は、9月28日までに下記に資料代(送料込み)1,000円を振り込んでください。申し込み部数のみ印刷しますので期日厳守です。
郵便振替口座番号、00230−0−66416
郵便振替口座名称、(有)システム遠藤
住所、230−0052、横浜市金沢区富岡西4−46−17
必ず、「日本海海戦号外」費用と明記のこと
以上
8月10日コスミック社から発売の「超航空戦艦「大和」戦記1」(900円)もお陰で売れ行き好調です。現在「同戦記2〜3」を執筆中です。ご期待下さい



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新規作成日:2004年9月10日/最終更新日:2004年9月10日